カラダのしくみ|平岡の研究ノート|「カラダは、何のためにあるのだろう」

カラダのしくみ|平岡の研究ノート|「カラダは、何のためにあるのだろう」
Photo by Jakob Braun / Unsplash

はじめに

「カラダは、何のためにあるのだろう。」


皆さんは、自分のカラダについて、どれくらい知っているでしょうか。

毎日当たり前のように使っているカラダですが、その仕組みについて詳しく説明できるかと聞かれると、意外と難しいものですよね。

心臓が動く仕組み、筋肉が収縮する仕組み、あるいは眠っている間にも生命を維持してくれている仕組み、などなど。

僕たちのカラダには、驚くほど精巧な生命活動が備わっています。

でも、僕はときどき、もう少し違ったことを考えるんです。

そもそも、「このカラダは何のためにあるのだろう?」と。


大学生の頃、僕はカラダでお金を稼いでいました。
(…唐突にこんなことを書くと「お前、もしかして…!?」なんて思われるかもしれませんが、モデルという仕事をしていたんですよ。この経験も今回の記事にて考察を書いています。)

その後、インドの大学院で解剖生理学やインド哲学を学び、今ではヨガセラピストとして、人間のカラダと向き合う仕事をしています。

そして、61歳で亡くなった父の人生も、僕の身体観に大きな影響を与えました。

振り返ってみると、僕にとってカラダとは、他人から見られるものであり、自分で観察するものであり、そして何より、人生を経験するためのものだったように思います。

今回は「カラダのしくみ」というテーマについて、医学や哲学の解説から少し離れて、僕自身の経験を交えながら考えてみたいと思います。

カラダを大切にするとは、どういうことなのか。

その答えを急ぐのではなく、まずは一緒に考えるところから始めましょう。

①モデルという仕事をしていて思ったこと
②インドで大学院生をすることで広がったカラダの認識
③父の死から考えた、カラダと生き方について

という、平岡の経験したことからの3本立てです。


他人に読まれるカラダ


先述したように、大学生の頃、僕は自分のカラダでお金を稼いでいました。

といっても、肉体労働やスポーツ選手の話ではありません。いわゆるモデルという仕事です。

モデルというと、顔立ちの良さや容姿の美しさを想像されるかもしれませんが、僕がこの仕事を通して興味を持ったのは、顔よりもむしろ「カラダ」の方でした。