カラダのしくみ|平岡の研究ノート|「カラダは、何のためにあるのだろう」
はじめに
「カラダは、何のためにあるのだろう。」
皆さんは、自分のカラダについて、どれくらい知っているでしょうか。
毎日当たり前のように使っているカラダですが、その仕組みについて詳しく説明できるかと聞かれると、意外と難しいものですよね。
心臓が動く仕組み、筋肉が収縮する仕組み、あるいは眠っている間にも生命を維持してくれている仕組み、などなど。
僕たちのカラダには、驚くほど精巧な生命活動が備わっています。
でも、僕はときどき、もう少し違ったことを考えるんです。
そもそも、「このカラダは何のためにあるのだろう?」と。
大学生の頃、僕はカラダでお金を稼いでいました。
(…唐突にこんなことを書くと「お前、もしかして…!?」なんて思われるかもしれませんが、モデルという仕事をしていたんですよ。この経験も今回の記事にて考察を書いています。)
その後、インドの大学院で解剖生理学やインド哲学を学び、今ではヨガセラピストとして、人間のカラダと向き合う仕事をしています。
そして、61歳で亡くなった父の人生も、僕の身体観に大きな影響を与えました。
振り返ってみると、僕にとってカラダとは、他人から見られるものであり、自分で観察するものであり、そして何より、人生を経験するためのものだったように思います。
今回は「カラダのしくみ」というテーマについて、医学や哲学の解説から少し離れて、僕自身の経験を交えながら考えてみたいと思います。
カラダを大切にするとは、どういうことなのか。
その答えを急ぐのではなく、まずは一緒に考えるところから始めましょう。
①モデルという仕事をしていて思ったこと
②インドで大学院生をすることで広がったカラダの認識
③父の死から考えた、カラダと生き方について
という、平岡の経験したことからの3本立てです。
他人に読まれるカラダ
先述したように、大学生の頃、僕は自分のカラダでお金を稼いでいました。
といっても、肉体労働やスポーツ選手の話ではありません。いわゆるモデルという仕事です。
モデルというと、顔立ちの良さや容姿の美しさを想像されるかもしれませんが、僕がこの仕事を通して興味を持ったのは、顔よりもむしろ「カラダ」の方でした。